広島市東区 東愛宕・西愛宕 町内会のホームページへようこそ♪

東愛宕・西愛宕町内会

愛宕町の歴史

私たちの愛宕町

 日頃、何気なく生活している街、愛宕町。この愛宕町は山陽道の広島城下の東部にあたり、寛永年間(1630頃)から家が立ち並び、道の左右に街道松が長く続いていたので、松原町(松原新町)と呼ばれていました。その後、江戸時代たびたび大火が発生したため、京都の愛宕神社の分霊を勧請し、愛宕神社にお祀りしました。それとともに正徳元年(1711)、愛宕町となりました。
 大正10年発刊の広島県史には、「戸511 口1939(大正6年末) もとの西愛宕町・東愛宕町なり、昔は松原にして、南は矢賀村に、承応の図(1652?54)に松原新屋敷とし人家あり、天和の図には(1681?83)には東松原町、南松原町とす、一つに松原新町とも称す、正徳元年火災を恐れ火神(愛宕神)を勧請し町名を改む、改祖の後、大須賀村分(一町九段五畝一此余)矢賀村分(一町九段五畝十三歩余)を合わせて一とし、今の稱に改む。」と書かれています。
 現在の愛宕町の中心を貫く道路は、広島城下町の初めから山陽道で、参勤交代もこの道を通った。明治27年には、広島まで開通した山陽鉄道は山陽国道と交差し、愛宕踏切が西端にできた。
 「二葉山をめぐる郷土史」(段原公民館郷土史クラブ刊)は、愛宕町をこのように紹介しています。
 筆者は大正時代からこの道をよく通った。商店街・愛宕神社・愛宕踏切が印象に残っている。昭和に入り愛宕踏切に歩道橋ができ、宇品線に愛宕駅ができ、ディーゼルカーが通った。
 昭和20年8月原爆では、愛宕町は爆心地から2㎞以内に当り336戸が全焼した。8月6日の午後3時まで、愛宕踏切東の愛宕町・
若草町・東蟹屋町はまだ燃えていなかったが、その後火が出て一面火の海となった。火の神愛宕社も焼失したが、道路の南方に土蔵が1戸焼け残っていたことを思い出す。日本の古来の耐火建築が原子砂漠に残ったことは印象深い。原爆後、焼けトタンや焼け残った瓦を拾い集めて、街道沿いにバラックができた。
 矢賀・府中方面、大内越峠を越して中山・温品・福木方面からの交通量が多く、大八車・馬車等から、バタンコ(オート三輪)・四輪自動車が増加した。愛宕踏切には12本の線路があり、上り下りの客車・貨車以外に機関車の入れ替えが多く、遮断時間が1日9時間もあり、徒歩者も比較的陸橋の利用者は少なくじっと我慢して、「もう遮断機が上がるだろう。」と待ち、シビレを切らして陸橋に上がると、遮断機が上がりくやしく思った経験者が多い。
 昭和37年、荒神踏切に荒神陸橋ができて、自動車はこれを利用し、あかずの踏切の自動車は当分の間少なくなった。
 昭和48年を中心に新幹線は芸備線の北側に並行して高架橋を架設し、多くの住宅の立退きで、愛宕踏切付近の景観が大きく変わった。
 昭和55年政令指定都市となり、愛宕踏切以東は東区となった。愛宕町は311世帯・785人。5年後の昭和60年の国勢調査では332世帯・753人。参考までに昭和30年は288世帯・1194人までに復興していたが、昭和40年頃から次第に高齢化が進んだ。
 さらに、愛宕跨線橋を次のように紹介している。
 明治27年山陽鉄道が広島駅まで開通し、山陽道に愛宕踏切ができた。
大踏切と言ったという。
列車や機関車の入れ替えなど踏切の遮断時間が特に長かった。
 大正14年、跨線人道橋ができた。
広島市では最初で、少年時代SLが煙をふいて通るのが面白く、上で立ち止って見たことがある。
遮断機がもう上がるだろうと待っていて、シビレを切らして歩道橋の階段を上がると、遮断機が上がり、くやしく感ずる人は今でも多いだろう。
 橋長46m・幅員2.7m、SLですすけたこの橋も、電化されきれいになり、昭和50年頃大修理をしたが、昔のままである。昭和48年から翌年にかけて、北側に新幹線が工事され、橋の上からよく写真を撮った。 (以上「二葉山をめぐる郷土史」より)

この跨線橋も、平成15年3月竣工の、エレベーター付設の緩やかな新跨線橋と架け替えられた。

inserted by FC2 system